2018年10月6日開催バッキンガム講演会資料の一つです。
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バッキンガム・ポストトゥルース.pdf==================
「ポスト・トゥルース」時代のメディア教育
フェイクニュース、メディア・バイアス、メディア・リテラシー教育の挑戦
デイビッド・バッキンガム
イギリス・ラフバラ大学名誉教授
キングス・カレッジ・ロンドン客員教授
トランプ選挙の結果として、いわゆる「フェイクニュース」と呼ばれる問題に対する数多くの議論が起こっている。トランプに反対する人々は、支持を得るためにでっち上げたニュースを流布する彼の支援者(ロシア政府を含む)を批判してきた。しかし、トランプが主張することは自身について間違った情報であるという見解をおとしめるために、トランプ自身はしばしばこの用語を用いてきた。イギリスではさほど問題は明白ではないものの、ブレクジット(英国のEU離脱)キャンペーンや労働党党首のジェレミー・コービンを追い落とそうとする試みがメディア・バイアスや誤リプリゼンテーションに関わる同様の問題を生じさせた。昨年、この問題に関するイギリス議会の公的な調査が告知されている。
フェイクニュースの危険性はまさに自明である。民主主義的な政治プロセスは信頼できる情報に依拠している。もし、情報がもはや信頼できないのなら、市民は政治的決定を行うための土台をほとんど持たないことになる。バラク・オバマがフェイクニュースを「民主主義への脅威」とまで表現したのはこのような理由による。大西洋の両岸で、教室でフェイクニュースについて子どもたちに教えることが求められてきた。もっとメディア・リテラシーを持った視聴者が増えればいくらかフェイクニュースに対して防御できるだろうという期待があった。
この論文で、私はこの状況に対応する上で直面するであろう困難についていくつか考えたい。私は、フェイクニュースは孤立した現象ではなく、より広い社会的、経済的、文化的な文脈で理解される必要があることを論じたい。また、私はこの領域での教育の実践的可能性と困難性についてもいくらか検討したい。私は、メディア・リテラシーを支持する観点から論じる一方で、フェイクニュースは簡単には解決できそうもない問題でもあることを提起したい。
フェイクニュースとは何か?
もっとも簡単に言えば、フェイクニュースとはでっちあげ、意図的にミスリードやだますことを目的としたニュースである。そのようなものとして、フェイクニュースと(アメリカの「オニオン」ニュースサイトのような)風刺的パロディ・ニュースを区別することが重要である。もっとも読者は誰もがこの違いを理解するわけではないだろう。典型的なフェイクニュースは本物のニュースサイトのふりをしてサイトに現れる。しかしフェイクニュースはしばしば大手メディアによって取り上げられ、再度流布される。
フェイクニュースはしばしば政治的な要素を持っている。つまり、それはある種の政治的影響をもたらすように計画された誤情報やプロパガンダとして意図される。それは国家間の「サイバー戦争状況」をもたらすことさえあるかもしれない。(もう一度繰り返すが、冷戦の歴史を見ればわかるようにこのような活動は決して新しいものではない。)
しかし、中には主に経済的な動機を持っているものも存在する可能性がある。フェイクニュースはしばしば「クリックベイト」として機能する。それは広告やユーザーデータの販売を通して収益を生み出す。ネットワーキング・サービス、とりわけFacebookは多くのこの種の仕事をあなたに対して行っている。つまり、彼らのビデネスモデル全体がこの機能に依拠しているのである。このようなものとして、フェイクニュース現象はインターネットの広大な政治的経済と関連させて理解される必要がある。
こうした政治的経済的な動機はまた、ぼやかされるかもしれない。ロシア政府は巻き込まれたのかもしれないが、2016年の大統領選期間に作り出されたトランプ支持のフェイクニュースの多くは明らかにマケドニアのベレスという町の十代の若者たちによって立ち上げられたサイトからやってきた。こうして起業した若者たちは、単にトランプの支持者たちに知りたいと思うものを提供することで、簡単に収益を得ていたと述べている。
今では数多くのフェイクニュースの事例がある。それらは間違いなく見いだしたり、真実からフェイクを区別することが困難になっている。もちろん、多くのものがあからさまかつ明白に馬鹿げたものである。私のお気に入りの事例は、投票の結果、北朝鮮のリーダー金正恩がこの世でもっともセクシーな男性だというものだ。このニュースは2012年にアメリカの風刺ニュースサイト『The Onion』に掲載されたが、正規のニュースサイト『China People’s Daily』にとりあげられた。ウェブサイト上に55ページにわたる写真が特集されたのである。しかし、こうした風刺のばかばかしさには限界がある。2016年の大統領選で流布した、いわゆる「ピザゲート」ニュースは、ヒラリー・クリントンがワシントンのレストランで行われている小児セックス密売組織に関わっているという馬鹿げたものであった。しかし、一人の白人至上主義者がピザパーラーに現れ、自動小銃の引き金を引いたとき、笑いは不快に変わったのである。
フェイクニュースがトランプ候補の運動の支援活動の中で広範に使われたことはほとんど疑いがないが、一方では政治的右翼によって突き動かされ、さまざまな政治的主張を超えてこの犯罪的行為は実行された。「Return of Kings」は極右サイトの一つに過ぎないが、「フェイクニュース」をリベラル・メディアが偽って流布したものとみなしている。米情報機関はトランプによるロシアのホテルの部屋での行為に関するフェイクニュースを流布しているとトランプは主張しているが、これもまた一つの事例である。これはすでに起こっていることかもしれないが、近い将来、私たちはフェイクニュースについてのフェイクニュースを目にするに違いない。
ある意味で、フェイクニュースに関する議論はインターネット誇大広告バブルにおける進行しつつあるデフレーションとみなすことができるかもしれない。ここでいうインターネット誇大広告とは、とりわけ、ネットワーク技術が市民参加と民主主義的関与の導くだろうという考えである。
私たちの中には最初からこうした主張に対して懐疑的だったものがいる一方で、ティム・ウや雑誌『WIRED』のような初期のテクノロジー信者などは、そこにたどり着くのにもう少し時間がかかった。こうしたテクノロジーは進歩的な政治活動家たちにとって優れた原動力になるかもしれないが、私たちの研究によると、それはまた復古極右や街宣レイシズムなどの他の形態の人権侵害者を含む反民主主義的な力にとっても価値のあるツールである。いわゆる「オルト・ライト」もまた情報を作り、サーチエンジンに手を加え、荒らし行為やタグ付け、バイラル(口コミ)活動を行うことができる。実際、明らかになった証拠によると、彼らは左翼よりもこうしたことについてよりうまくやっているという。
「ポスト・トゥルース」:より広い問題
フェイクニュースは決して孤立した現象ではない。むしろメディア制度とより広い政治文化の中にあるもっと広範な傾向の症状として見なされるべきである。問題は単純ではなく、簡単には根絶できそうもないのは、部分的にはこうした理由による。
「ポスト・トゥルース」という用語は、よく知られているようにオックスフォード英語辞典の2016年の言葉であり、この広い文脈にいくつかの意味を与えている。オックスフォード英語辞典の編集者はポスト・トゥルースを「世論の形成に際して、客観的事実が感情や個人の信条へのアピールよりも影響を与えないような環境に関連し、意味する」ものと定義している。このことが意味するように、ポスト・トゥルースという用語は、世界を祝福するというよりは、批判的な、むしろ皮相的でさえある主張を表現している。とりわけ、政治家が単に虚偽の約束をしたり、世論操作を試みたりするだけではなく、実際には完全な嘘を語り、罰せられることなくそうしたことができるような状況を描いている。
1710年にさかのぼると、風刺作家のジョナサン・スウィフトは次のように記している。「嘘は飛び、真実はその後から引きずられてやってくる。」「フェイクニュース」はいつも私たちとともに存在してきたのであり、そしてこうした問題は決して新しいメディアに限ったことではないと論ずることができよう。そうであっても、ソーシャル・メディアの台頭は古いメディアを統制する管理者や管理機関を経由することなく虚偽や誤情報が人から人へと流通させることを簡単にしてしまった。私が論じてきたように、フェイクニュースの流布はある部分においては、「デジタル資本主義」時代におけるメディアとテクノロジー企業のビジネスモデルの変化の結果である。
しかし、フェイクニュースは単なるメディア現象ではなく、それはまた政治家自身の行為についての現象である。再び、政治家は一般市民をあざむこうとして、いつも嘘の主張をし、実際あからさまな嘘をつくと論じる人もいるかもしれない。もっとも、トランプ米大統領や前英独立党首のナイジェル・ファラージ、ロンドンのボリス・ジョンソン市長といった人々の成功事例は、彼らがますますうまくやり遂げることができることを示唆しているのだろう。
フェイクニュースの台頭はまた、広範な一般市民の信頼の減少を反映しているのかもしれない。一貫して一般的市民は権力者、とりわけ政治家やメディアそれ自身に対して次第に信頼を置かなくなりつつあることがうかがえる。懐疑的な態度の高まりはブレクジット運動の最中にマイケル・ゴーヴ前イギリス教育長官が発した有名な発言に見ることができる。
ゴーヴはブレクジット運動の最中に、イギリスがEUに毎週3億5000ポンド支払っており、EU離脱後にこの金は私たちの国民健康サービスに回されるだろうという虚偽の主張に加担した。しかし、有力なエコノミストたちから批判されると、ゴーヴは「この国の国民はもう専門家はいらない」と主張した。これではまるで「国民」の優れた知恵に対して、もはや既成の知識源は重要ではないようだ。逆説的にではあるが、これはまさしく政治エリートを構成する一人であり、有権者の信頼を勝ち取ることを追求するポピュリスト的な政治家によってもたらされる議論なのである。
誤情報やメディア操作はすでに確立されている現象かもしれないが、デジタル時代では新しい形態を取りつつある。この問題に対してどんな解決方法が追求されるだろうか。
技術的な解決策
ポルノのような他のオンラインのコンテンツの問題と同様に、ラベリング制度が必要だという人もいる。Webサイトはファクト・チェック組織から認められた何らかの公的な資格を得るよう促されるか、もしくは要求されることもあるかもしれない。信頼できるサイトの「ホワイト・リスト」が作られるかもしれないし、攻撃を繰り返す者は警告され、インターネット・プロバイダーから除外されるかもしれない。
こうした対応は明らかにテクノロジー企業のある部署との協力が求められる。Facebookのマーク・ザッカーバーグは当初、フェイクニュースの拡大への対応を否定していたが、その後、それを一部撤回した。Facebookは明白な詐欺による広告のブロックを実施した。そしてGoogleは自らのアドセンス・サービスを通してこの問題に対応すると述べている。Facebookはまた、真偽<係争中>の記事にタグを付ける活動を行っているファクトチェック・サイトをパートナーにした。
しかし、こうした方法では次のステップはありそうもない。こうした行動が意味していることは、これらの企業は単なるテクノロジー企業ではなく、<メディア>企業だということである。すなわち、これは彼らが非常に避けたいと考えている何かなのである。彼らにコンテンツに対して責任を持つことを要求することは、完全に彼らの基礎的な経済モデルの土台を壊すことになるだろう。このモデルとは、彼らは単にユーザーに自分たちが選択する方法で自由に利用できる技術サービスを提供しているに過ぎないという主張を前提としている。
メディア・リテラシーの場所
政府は、この自由市場論が問題だと考えることを望まないし、しそうもない。そこで、論者の中にはメディア・リテラシー教育を何らかのオルタナティブな解決方法だと考える者もいる。例えば、スタンフォード大学の研究者たちによる最近の調査では、ほとんどの若者たちが本当のニュースとフェイクニュースを区別できないことを見出した。そして、若い人たちに「インターネット・リテラシー」 を教えるべきだという声が上がった。(なぜこの議論が若い人たちだけなのか明らかではない。しかしこのことは置いておくことにしよう。)例えば、影響力のあるウェブサイト「Vice」は次のようなヘッドラインを表示させた。「私たちは子どもたちにインターネットに対して懐疑的になる方法を教える必要がある。」
多くのメディア・リテラシー教育者たちはこうした議論を歓迎するだろう。しかし、彼らはまた何らかのもどかしさを持つことも無理はない。何十年も私たちはそのようにしてきたではないか。それにも関わらず、現実は、主流のカリキュラムの中では、いつも私たちは周辺へと追いやられてきた。
確かに、これらはメディア教育者にとっては新しい問題ではない。(少なくともイギリスでは)メディア・スタディーズ教育は常に、古めかしい関心になってしまったように見えるまで、ニュース・バイアスやリプレゼンテーションに関する問題と取り組んできた。インターネットの降臨は信頼性や情報リテラシーに対する必要性などの新しい問題をもたらした。しかし、これらもまた長年にわたる教育者たちの課題であった。
しかし、ここにはより広い問題がある。メディア・リテラシーはしばしば「解決主義」の精神の中で持ち出される。メディア規制が不可能なとき、メディア・リテラシーはしばしば受け入れ可能な答えとして見なされる。それはあらゆるメディアにとっての社会的心理的病理に関連する魔法の万能薬として。あなたは暴力や性のめざめ、肥満、麻薬、消費主義が心配ですか? メディア・リテラシーはその答えです! さぁ、教師たちはそれに取り組みましょう!
この議論は明らかにメディア・リテラシーを保護主義的な営為として、予防薬としてみなしている。それは対処すべきだとする問題を単純化し過ぎており、若い人たちに対するメディアの影響を大げさに主張し、そしてメディア教育の複雑性を過小評価している。したがって、社会の暴力はメディア暴力による単純な結果ではないし、単に子どもたちに映画は間違ったことを君たちに教えていると話したり、あるいはいくつか提案されているようにテレビを見ないようにしたりすることによって暴力が減少するわけでもない。
似たような議論はフェイクニュースにも当てはまる。フェイクニュースは政治やメディア世界のもっと広い傾向の症状である。人々(子どもだけではない)は非常に複雑な理由によってフェイクニュースを信じようとするだろう。そして私たちは単に彼らにファクトチェックさせたり、問題について論理的に考えさせたりすることによって、それを信じることをやめさせることはできない。
メディア・バイアスについての教育
もちろん、これは私たちが試すべきではないと言っているのではない。アメリカのメディア教育者のフランク・ベーカーは、教室でフェイクニュースとたたかおうとする教師のために、熱心にチェックリストやリコメンデーションを集めている .。生徒たちはオンライン情報を相互チェックしたり、情報源の真偽を確認・比較したり、サイトのデザインや構造を分析したり、制作者の動機を考えたりするように促される。ここにアメリカのメディア・リテラシー・グループによって作られた、フェイクニュースの扱い方に関するアイデアの「チェックリスト」の一例がある(図1)。
こうした提案は有用である。しかし、(私が論じるように)それらがどのように実践的か問うべき理由がある。さらに言えば、これらは(暗に)信頼されるサイトと「フェイク」のサイトを見分けることは疑いなく重要であることを暗にしてしているように思える。それに対し、私はこうした問題は一般的にニュースと関連付けながら対応する必要があると論じたい。何がフェイクかを見つけるだけではなく、より広くあらゆる情報源に存在しているバイアスの形態を見出すことが重要である。
図1 フェイクニュース・チェックリスト(PDF版を参照)
イギリスでは、メディア・バイアスについては、とりわけ学校におけるメディア・スタディーズ・コースとしては長い教育の歴史がある。ロバート・エントマンが述べているように、バイアスは依然として「メディアにおける世論における関心を持ちつつ理論化された重要な要素」 である。「ステレオタイプ」のように、それは日々の議論の中でたびたび取り上げられる一般的な概念である。私たちはそれを旧来の方法もしくは「ポスト・トゥルース」時代とは無関係のものとして論じるかもしれない。しかし、バイアスはいまだ有用な包括的な用語ではあるが、それは教師や生徒がそれを用い、問いかける必要のあるものである。
では、私たちはメディア・バイアスについて何をどのように教えるのだろうか。第一に、メディア理論の他のキーコンセプトと同様に、私たちはこの考え方を問い、問題化する必要がある。バイアスと並んで、客観性や公平性、公正、バランスといった一群のしばしば同様な意味で用いられる用語がある。これらの用語は重なりあうかもしれないが、それらはまったく同じことを意味しない。注意深くこれらの用語を区分けし、それぞれの事例を見ることは第一ステップとして必要なことであろう。ここに役に立つであろうメディア・バイアスのタイプのいくつかの分類がある 。しかしなお、それらは慎重にかつ批判的に利用されなければならない。
同時に、私たちはバイアスの必然性を認識する必要がある。明らかに最初にバイアスとして私たちが認知するものは、私たち自身のバイアスに、すなわち私たち自身の偏見、思い込み、先入観に依拠している。「フィルター・バブル」の時代には、安易に無視してしまう危険がある。私たちは徐々にそれらのバイアスを確認しやすい方法で私たちのメディア環境を選択し、カスタマイズすることができるようになりつつある。この観点から、生徒に自らのメディア実践を振り返るよう励ますことで、彼らは自分の情報源と判断力によって、問題となっている複雑性に光を当てることができるようになるだろう。
第二に、私たちはより広い状況に適用できるようにするために、バイアスの概念を精緻化する必要がある。バイアスはあからさまな解釈だけではなく、また何らかのレポートが焦点を当てようとしたり、忌避しようと選択する場合においても(そしておそらくより強く)はっきりと示されるだろう。それは(明示的もしくは暗示的に)数々のニュースの間で作られる関係性の中で、そして最初にキーとなるトピックが明示される仕方において、明らかにされるかもしれない。取り上げるニュース項目が用意される仕方において、すなわちまず最初にニュースとして何を<カウントする>ように見えるか、そしてどのように特別なトピックが取り上げられ、明示されるか、すなわち思考過程に何が含まれ、何が排除されるのか、もしくは何が関連し、もしくは関連しないように見えるのかということの中にバイアスが必ずある。これら二つの概念、<ニュース項目>の<設定>と<フレーミング>は研究の重要な部分を生み出してきた。これらのあまり明白ではないバイアスの形態が実際には影響力を持つと論ずることもできよう。なぜならば、それは読者にとっては気づきにくく、それゆえに抵抗しにくいからである。
第三に、私たちはいかにしてバイアスの制度的な原因を理解するかという問題がある。ある場合には、バイアスはメディアのオーナーまたは経営者の直接的な介入の結果かもしれない。この制度的なバイアスは多くの場合直接的ではなくても、それはニュース関連組織の「文化」やスタッフを行動するように仕向ける方法に関係している。それはまた、オーナーや従業員が組織とオーディエンスとの関係について信じているものを反映しているかもしれない。ジャーナリストはしばしば自分たちの報道のバイアスは単に自分たちの読者のバイアスの反映だと論じる。この意味で、バイアスに対する経済的な動機が存在しうる。人々は自らのバイアスに反するものを消費するためにお金を払ったりしない。バイアスは売られるのである。
バイアスの問題、真実と虚偽、そして「フェイクニュース」さえも明らかにメディア教育のための正当なトピックである。しかし、私たちはここで気をつける必要があると思う。私が論じてきたように、フェイクニュースはより広い問題の単なる一つの現れである。それは「本物の」ニュースにも当てはまる。問題解決策としてメディア・リテラシーを見ることは、問題を単純化しすぎるだろう。そしてこの仕事の困難さを過小評価してしまうだろう。私は次にこの問題をより詳細に述べたい。
メディア・リテラシーの問題
第一に、私たちが教室でフェイクニュースを取り扱う方法に対する重要な教育学的問題がいくつかある。情報源の信頼性や信ぴょう性の評価は「古い」メディアで行う場合に比べてオンライン・メディアで行う場合は、ほぼ間違いなくより困難である。しかし、これは経験豊かなメディア教師ならばたぶん扱える問題である。だが、この場合、真実と虚偽の判断は、単にそれからが示されている方法よりもむしろ、<形式>と同様に<内容>について知ること、すなわち目の前のトピックを理解することにある程度依拠している。これはとりわけ生徒の多くが政治的社会的問題に関心がなさそうな文脈では、困難である。ましてそれらについて知識が豊富の場合はもちろんである。(しかし、繰り返すが、この問題は若い人たちと同様に大人に対しても当てはまる。)
これらの批判的スキルを涵養することができるとしても、さらなる疑問として、教室の外でそれらはどの程度まで実際に適応されるかという問題がある。どのぐらいの人々がオンラインの情報源の信頼性を進んで日常的に評価するだろうか。あるいは情報をクロスチェックするだろうか。とりわけ、私たちが情報へ簡単にアクセスするようになる時代には。個人的に言えば、私は残念なことにほとんどこうしたことをやらないし、私が平均16歳の生徒にこうしたことをするよう説得することができるか疑わしい。
この問題を乗り越えたとしても、認識論の問題がある。あなたは与えられた「事実」がさまざまな人々によって、さまざまな文脈で解釈されうるということを知る完全な相対主義者になる必要はない。いくつかの完全な真実や完全な虚偽は存在する。しかし、それらの間には広大な灰色の領域が横たわる。そして解釈は複雑な仕事だ。マハ・バリが指摘したように、「リアル」ニュースはしばしばそれに取り組むために多くの批判的かつ感情的なエネルギーが求められる 。そのようにして虚偽から真実を見分ける。あるいは、むしろ、世界の多くのリプリゼンテーションにおける真実と虚偽の要素を見出し、折り合いをつける。そしてそれはもっと複雑な教育の旅の始まりに過ぎないのかもしれない。
私たちは合理的プロセスと取り組んだ、あるいは少なくともある種の教育学的意味によって、合理的に<された>者だという仮定をする危険性がある。しかし、確かに言えることとして、教育的な見方から、第一に、なぜ人々は明らかな「フェイク」ニュースを信じるのだろうという疑問から始めなければならない。すべてのメディア利用は決して合理的ではない。私たちが信頼を置こうと決断する場所は、合理的な計算と対応するのと同じようにファンタジーや感情、願望と対応する。私たちはすべて私たちが信じることを<欲する>ものを信じさせられている。
私たちがさらされるメディアや情報源に対するより大きな制御を行使しうるとき、これはほぼ間違いなくより複雑である。デジタル・メディアの観点から、これは「フィルター・バブル」や「エコー・チェンバー効果」への関心をもたらした。私たちは簡単に私たちが嫌いなものや賛成しないものをフィルターで遮断できる。それによって、私たちに存在する世界観を確認してくれるすべてのものが現れる居心地の良い世界に私たちはとどまっている。研究によると、私たちは積極的にこのようなフィルター・バブルの中にとどまることを<望む>。そしてさらに一般化すれば、すでに確立された立場や偏見への役割を果たすニュースはさらにますます「好き」になる傾向がある(そしてそれゆえに、ソーシャル・メディア企業にとってより多くの収益を生み出す) 。これは部分的にはメディアの拡散と断片化の必然的な結果であり、他方でまた増大する政治的分極化の一つの症状であり、より広大化しつつある権威への信頼が消滅する症状でもある。
偽りの信条はフェイクニュースにさらされることから生まれるか、あるいは単純にそれによって再確認されるのかもしれない。しかし、どちらにしても一服の事実や合理的な議論の力によって簡単に症状が消えることはありそうもない。メディア教育の歴史は確かに私たちにこのことを伝えている。例えば、人種差別は合理性をアピールしたり、メディアにおける人種差別主義を批判的に分析したりすることによって症状が消えることはありそうもない。実際、こうした教育上の方略はしばしば極端な抵抗を引き起こしている。
ここにはメディア・リテラシー教育が簡単に陥るさらなる危険性がある。批判的な見方は簡単に一般化された、表層的なシニシズム、すなわちあらゆるものとあらゆる人を覆いつくす不信、そしてとりわけメディアに対する不信へと陥ってしまう。これは虚無的な見方に見えるかもしれないが、それはまた非常に快適に適用できる立ち位置でもある。すなわち、あらゆる政治的説得行為における陰謀論を一体化させてしまう立場である。
メディア・リテラシーを超えて
究極的には、メディア・リテラシーは一つの個人的な解決法である。しかし、政治家は、メディアは市民に情報をもたらし、民主主義を促進するといった良い仕事をしないし、それを規制することも不可能であることを悔やみつつも受け入れている。そして、彼らは責任を消費者個人に転化する。すなわち消費者自身が解決すべき問題であると。
私は別の場所で、このアプローチは政府によるメディア・リテラシー支援と取締機関の仕事を知らしめることを論じた 。例えば、イギリスにおけるメディア・リテラシー政策の歴史を理解することが鍵となる。それは消費者を力づけるものとして現れるが、他方でそれは効果的にメディア情況の中で引き起こされる問題に対応する政府の責任を免除する。このメディア情況は次第に自由市場原理によって動かされるのである。
メディア・リテラシーは答えの一部かもしれないが、しかしそれだけでは十分ではない。メディア・リテラシーはメディア改革に対するより広い社会運動と結びつく必要がある。これは部分的には職業的な実践である。今や、職業ジャーナリストが、エビデンスの使用についてはより明確に懐疑的になり、そして自分自身の透明性をより高める必要性が高まっている。とりわけ、トランプ大統領の時代には、大手メディアのジャーナリストは「権力に真実を問いかける」伝統的な役割を果たすより大きな責任を負っている。
しかし、ソーシャル・メディアの「非職業的」ジャーナリズムによる広い挑戦がある。エフゲニー・モロゾフが論じているように 、フェイクニュースは究極的には彼が「デジタル資本主義」と呼ぶビジネスモデルの結果として存在する。儲かるから存在するのである。もし私たちがフェイクニュースと闘いたいと思うならば、私たちはデジタル広告の巨大な力とその上に繁栄するグローバル企業と闘わなければならない。最初のステップはこれらの企業に彼らはメディア企業であり、単なる情報技術企業ではないことを認めさせ、そこから導き出される何らかの責任を受け入れさせることであろう。モロゾフはよりよい政府の規制と究極的にはビックデータ企業の解体を求める。これはありそうもないことかもしれない。しかし、確かにこのより大きな構想図を理解することは、批判的メディア・リテラシー教育のあるべき姿である。
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